蔵元紹介

佐原
酒造
佐原は古社 香取神宮がある歴史の古い街です。
又、豊かな自然=水の里であり利根川(坂東太郎)との密接な関係があり、古代から中世まで佐原周辺は「香取の海」と言われ、霞ヶ浦、北浦と鬼怒川水系の水を湛えており、鹿島神宮と共に香取神宮の存在は大きく中央(京都)や先進地との交流が盛んにあった。
東京湾に注いでいた利根川が、近世初期(1654年)幕府が江戸を水害から守る事、利根川水運の発展を図る事、新田開発による年貢米の増収などの理由により、銚子口から太平洋に注ぐようになった。(利根川の東遷)
東北や関東各地の年貢米や諸物資は利根川を遡り江戸川を下り、江戸の蔵前や日本橋へ運ばれた。物資と共に人の往来も非常に盛んになった。
「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」といわれ隆盛を極めた。

昭和初期まで船運が盛んであった時代、川面は貨客の船で埋まった。川岸には回漕店、汽船会社、旅館、米穀肥料商、八百屋、菓子たばこ店、川魚店、酒屋、醤油の製造屋等々が軒を連ねていた。ほとんどの家毎に荷物の積み下ろしや人の乗り降りの為に「だし」と呼ばれる船着き場が作られ「昼夜止む時なし」と言われ水陸往来の群集で賑わっていた。
醤油造りも盛んで1839年に14軒が名を連ねていたが、現在「正上」が他所で製造委託の1軒のみとなってしまった。

水の里であるため昔から川魚漁が行われ、又肥沃な農地からは米や野菜、落花生、梨などの農産物が生産され、「うり」「きゅうり」「しょうが」「小なす」「梅」などを上質な酒類、みりんで漬込み、酒粕が効いた風味豊かな漬物(忠敬漬、てっぽう漬など)が作られ名物となっている。これらの特産物は、現在も川魚を使い「すずめ焼」、わかさぎの「いかだ焼、」鯉の「すがた煮」、などそのものの形、或いは手を加え「佐原の味」として売り出されている。

酒造
良質な水
江戸初期(1661~73年)に伊能三郎右衛門(伊能家の先祖)が常陸(茨城県)の牛堀平八郎から70石の酒造株を買い受けて始めた。
江戸中期(1787年)には一村で35軒の酒造家がおり、他に類例が少ない「関東灘」の異名を持っていた。
当時もっとも大きな酒造屋は永沢次郎右衛門の1675石、次いで伊能三郎右衛門の1480石で千石酒造屋が2軒もあった。(両家とも1826年には酒屋株を他へ譲り渡している)
現在は香取街道沿いにある、東薫酒造と馬場本家の2軒となっている。

下総佐原に東薫酒造は、江戸時代の華やいだ文政8年(1825年)に創業しました。
日本地図を作りあげた偉人 伊能忠敬。その伊能家は前述の通り、佐原で酒造業を営む名主であり東薫酒造の創業者は、伊能家に弟子入りし、酒造業を習得発展させたと伝えられております。
利根川の船便と水郷地帯の良質の早場米、良質な水と言う酒造りに好適な条件のもとで、約190年の歴史と伝統を誇りに酒造り一筋に歩んで参りました。

1624年~1643年(寛永年間)に1軒
1688年~1703年(元禄年間)に3件が創業
その後100年は創業する者は無く、1854年(徳川末期安政元年)から急激に増加
元禄年間、幕府は酒屋運上制(酒税制度)を取り「企業」としての酒造りが始まった。
明治33年 237軒
昭和10年 124軒
昭和20年 66軒
現在組合員 40軒 となっている。

詳しくは千葉県酒造組合のホームページをご覧ください



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